働かなくても生きていける人たち
有閑階級(leisure class)といって、昔から資産を保有しているから労働に従事しなくても遊んで暮らしていける人たちは多くの国に存在しました。
本来、有閑階級と労働者階級の人たちの生活は完全に分離されていて、交わることなどなかったのですが、現代の日本は一般人でも起業や資産形成などで充分な資産を築ける機会を得ることが出来るようになったため、同じ地域で同じ場所で消費したりしています。
今の時代は労働者からスタートしてFIRE達成も可能なので階級という区分ではなくなっています。
蓄積された資本でFIRE可能な水準に達成すれば、頑張らずにだらだら過ごす事も可能になりますし、だらだらせず自分のやりたい事を達成するために頑張って生きる事も可能になります。
何かに頑張る自由もあれば、何も頑張らない自由があるというのがFIRE後の世界です。
ただ私から見て働かなくても生きていける立場になっても、何かしら仕事を持って働いている方が多いように思えます。
そんな働かなくても生きていけるのに稼ぎ続ける人たちについて綴ってみます。
これ以上お金は必要ないのにお金を稼ぎ続ける人たち
事業家にしろ投資家にしろ、もう一生涯で必要とするお金を持っている日本人だけでも数百万人と存在すると思います。
事業家は充分すぎるほど資産を保有しているとしても、雇っている人たちの人生を背負っている事もあり、そう簡単には辞められない理由は分かりますが投資家に関しては自分1人の判断で決断することが出来ます。
本人にとって恐らく使い切れないお金を既に持っていても「2億円は突破した。最終的な目標は5億円だ!」「最低でも10億円は欲しい」「(絶対に使い切れない資産持ちでも)もっと高みを見てみたい」とまるでゲームのスコアを伸ばしたいかのように日々勉強し、投資活動を継続しています。
投資家は自分の運用資金がお金を生み出す原資となっているため、人的資本や組織力で収益を上げられる事業家よりお金の使い方は渋いと思いますから消費生活にそれほどお金を使わないように思えます。
(昔、億持ちの投資家も集まるオフ会で酒飲まずに水で乾杯いう話がありましたよね)
結局、モノやサービスを購入するための交換手段が欲しいのではなく、投資活動自体に生き甲斐を感じたり、承認欲求から来るものではないかなと考えてます。
ライスワークを卒業してから考える仕事を持つ事の意義
経済的自立を達成するとライスワークをしなくて良くなります。
ライスワークとは文字通り、飯を食っていくための労働、つまり生活を維持するために働くことです。
生きていくために働く以外の選択肢がないなら、考える余裕はあまりないと思いますがライスワークから卒業してみると、改めて仕事の意義を考えます。
様々な視点から考察することはできますが、人間は社会的動物であるという事から考えると答えはシンプルになるかなと考えています。
生存するためには社会が順調に機能していることが大切であり、人間はその社会と接することを本能で求めているのだと思います。
人類は生存するために社会の構成員として活動すると生き甲斐という欲求を満たすように創られているのかなと思うほど、本能から来る欲求のように感じます。
人間はいろいろなタイプがいるのでこれに当てはまらないタイプも当然存在しますが、多くの人は社会に接することを望みます。
最も容易に社会と接することが出来るのは仕事を持つ事です。
仕事を通じると自分とは合わないタイプでも協調しなければなりませんし、これは相手側にも当てはまる事です。
だから趣味嗜好や世代間による価値観がかなり違っても組織として成り立っていけるのだと思います。
ただ自由度を失わないような働き方になると仕事内容はかなり限定されます。
結局、相当な高いレベルの資本力(人的、金融的、社会的)を持っていない限り、得られるものを選択しなければなりません。(言い方を変えれば、何かを妥協しなければなりません)
おわりに
頑張る自由も頑張らない自由もありますが、前者を選択するFIRE民は多いのではないでしょうか。
労働に縛られずに自由に生きたいとFIREしている人でも仕事持って働いているのは不思議なのかもしれないけどね。
結局、働くのが嫌いというより組織に入って誰かに指図されたり、スケジュール管理されるのが嫌なだけかもしれません。
こういう孤高タイプはFIREか起業家(またはフリーランス)を目指した方が良いと思います。
孤高タイプは真剣に自立できるように努力しないと定年まで働ける社会順応タイプと違って中年になる頃には職なし、金なし、スキルなしで人生詰んでしまう可能性があります。